軍事オタク履歴書
還暦過ぎの趣味趣味おじさんです。
今日はテーマを変えて、軍事オタクの履歴を紹介しましょう。
私は四人兄弟の二番目。他の三人はみな女。そういう環境で育ちました。ママゴトモは
嫌だし、近所の子供たちとも遊ばず、家で本を読んでるのが好きな子供でした。学校に
上がって夏休み,冬休みは母の実家に年の近い叔父たちがいたのでいつも遊びに行って
ました。映画に連れて行ってもらったり、レコードを聴いたり、いろんな本を読んだり。
その中に「丸」という軍事雑誌がありました。子供心にも戦闘機、戦車、軍艦格好いい
なあと感じたんでしょう。また5歳年上のいとこがすでに軍事オタクで「航空ファン」
を購読していました。それらの影響から私も軍事オタクの道へというわけです。それか
ら小学生の3年生ころからプラモデルを作り始めました。プラモデルが流行し始めた頃
でした。
私の両親は戦中派で父は学徒動員で神奈川の軍事工場で働いたことがあり、母は満州で
終戦を迎えています。父は戦争体験としてグラマンの機銃照射を経験したことを話すく
らいでした。実際戦地に赴いたわけではないですから。母は祖父がソ連に抑留された為
(シベリアには入ってない)祖母と二人で引き揚げてきました。途中二人の妹を亡くすと
いう悲しい出来事がありましたが、母はまるで遠足帰りの楽しい思い出を話すように今
でも話します。祖母は悲しい満州の話を私たち孫には決して話しませんでした。
戦後74年が経ちました。実際の戦争体験者が亡くなり、本や映像では体験できても体
験者から直接聞くという事ができなくなりつつあります。戦争を知らない世代がほとん
どとなると問題発言をした議員みたいなのが出てくるのも当然です。今話題になってい
る5Gが軍事の世界に応用されるでしょう。殺人ロボットが歩兵の代わりになり遠く離れ
たコントロールルームでTVゲーム感覚で人殺しを行うということが現実になるでしょ
う。AIが発達したらターミネーター、レプリカントが実際に生まれるかもしれません。
話を元に戻しましょう。軍事オタクの少年は中学に入って「航空ファン」の購読を始
め、プラモデルにも塗装をすることを覚えました。ちょうどレベルの32分の1スケールモデルが出始めたころです。当時は筆塗しかできませんでしたが「ゼロ戦」「雷電」
「ワイルドキャット」「FW190」etc やはり飛行機が好きなんだなあ。ジェット機も
作ったのですが、機首に重りをつけることを知らなくて尻もちをついちゃって格好悪い
し、流麗なスタイルはメリハリがなくてつまらない、しかも銀塗装一色だと余計つまら
ない。そんなわけでもっぱらW.WⅡのレシプロ機、とりわけ塗装映えのするイギリス、
ドイツの戦闘機を作ってました。高校に入ってみると5歳年上のいとこが作った模型部
が細々と活動していました。サッカー部入部に挫折した私は模型部の門をたたきまし
た。当時は先輩もいなくて一年生主体で模型の製作、資料集めとかしていました。当時
はWWⅡのジオラマがブームで飛行機を作るのは私ぐらいでした。文化祭に出品するた
めに久々に模型や塗料を購入して製作開始です。作品は「ホーカー・タイフーン」32
分の1スケールモデル、レベル製だったかな。武骨なスタイルと塗装映えを狙って選び
ました。部室に先輩の残した作品があってパーツの継ぎ目がきれいに消されていて美し
い仕上がりに驚き、自分の作品の稚拙さにがっかりしつつ、期末試験の合間にしこしこ
と。こんなことしてていいのかと思いつつしこしこ。何とか文化祭に間に合わせまし
た。今でこそ製作のコツは雑誌、映像、ユーチューブといくらでも手に入りますが、当
時は「航空ファン」の2ページのプラモデルのコーナーしかありませんでした。「モデ
ルアート」は出てましたが2冊は買えないから立ち読み専門でした。