洋楽、J-ポップス、アイドル
還暦過ぎの趣味趣味おじさんです。
浪人中、受験勉強に専念しなければいけないのに・・・
親元を離れての下宿生活、音楽好きのお師匠さんもいて楽しい毎日。おかげで2年も。
お師匠さんはアイドルも好きで相本久美子や三木聖子の追っかけもしていたような。
三木聖子は荒井由実が作った「待ち伏せ」がヒットしましたが、失礼ながら一発屋でし
た。私はといえば当時太田裕美が好きでした。コンサートにも行ったし(浪人中なのに)
「木綿のハンカチーフ」松本隆の詩が故郷を離れて侘しい浪人中の心境に響きます。故
郷に残した彼女はいなかったけどね。皆さんご存知とは思いますが、松本隆は伝説のバ
ンド「はっぴいえんど」のドラマーでのちに大ファンとなる松田聖子のヒット曲の多く
を手掛けています。「はっぴいえんど」の他のメンバー細野晴臣、鈴木茂は「キャラメ
ル・ママ」になり荒井由実のバックを務め、大滝詠一はソロ活動をします。J-ポップス
の礎となる人たちですが、当時は知る人ぞ知るといった存在でした。お師匠さんの慧眼
に驚くばかりです。当時はピンクレディーをはじめとしてアイドル、歌謡曲全盛時代で
した。高校でも実際ロックに詳しいやつはほとんどいなかったし、ましてや日本のロッ
クなど好きなやつは皆無でした。単に田舎に住んでいたからかもしれませんが。
二浪してようやく大学生となり合格祝いでオーディオセット購を購入。ダイヤトーンの
スピーカー、サンスイのアンプ、パイオニアのプレイヤー、トリオのチューナー気張っ
て買いましたが、下宿生活ですから音も出せずヘッドフォーンでしか聴けないトホ
ホ・・
暇を見てはレコード店をはしご、小遣いの許す限りレコード購入に費やしました。しか
もあこがれだったLPです。好みもばらばらでジェフ・ベック、ツェペリン、イーグル
ス、ドゥービー・ブラザース、オールマン・ブラザース、山下達郎など。
大滝さんのコンサートにわけもわからず行きましたが、キーボードが坂本龍一だったよ
うな、記憶があいまいです。お師匠さんから勧められた山下達郎はソロデビューから
ズーと大ファンです。ロックコンサートにもずいぶん行きました。ジェフ・ベックは3
回くらい、武道館にも行きました。上の席だったので音がこもって最悪。達郎が大きな
多目的ホールでコンサートをやらないのも納得できますね。ポリスのコンサートに行っ
たときはドラムのスチュアート・コープランドのうまさに驚きました。今では映像でい
くらでも見ることができますが、家のしょぼい音響環境では本物の臨場感は味わえない
。還暦も過ぎるとコンサートも億劫だし、いまだにヘッドフォーンで我慢しなければい
けないのも情けない限りです。
1982年ワールドカップスペイン大会
1982年になりました。スペイン大会となります。
このころになるとNHKで生中継が行われるようになり、ビデオデッキも普及するように
なり試合を普通に録画できるようになりました。私もいち早くビデオデッキを購入した
のですが、根っからのソニー信者の為、βを買ってしまいました。技術的にβのほうが優
れているし、本体、テープどちらもVHSよりコンパクトだし。まさかシェアー争いで
VHS連合に敗北して消滅しちゃうとはねえ。ま、どちらもDVDにとってかわられる運命
なんですが。大量に録画したテープは整理してないし、βデッキは壊れちゃったしね。
唯一の救いはVHS・DVD・HDDトリプルデッキが残っていることです。暇な時間にダビ
ングしようと考えてるんだけど、βテープはどうしようか。ダビングサービスは高い
し、中古のデッキを買うしかないですね。フォーマットが進化するたびに古い録画をど
うしようかは悩みですね。ダビングも等速じゃないとできないから時間はかかるし、ど
うせ暇なんだろうと言われそうですが。
話をワールドカップに戻しましょう。
1982年当時の西ドイツの主要メンバーはGKシューマッハー、カルツ、シュティー
リケ。ブリーゲル、フェルスター兄弟、ブライトナー、ルンメニゲ、リトバルスキー、
フィッシャーとタレントはそろっていました。1次リーグは初戦で敗れるという波乱の
幕開けでしたが、2連勝してグループ1位で突破し、2次リーグも無難に突破しまし
た。そして準決勝はプラティニを中心に素晴らしい攻撃で注目されていたフランスが相
手でした。1-1から延長戦となりトレゾール(当時は珍しかった黒人選手)小さな巨人
ジレスのゴールで1-3となり万事休す。これで終わりと誰もが思いました。しかし、
西ドイツはそれから驚異の粘り、不屈のゲルマン魂を発揮するのです。故障で本調子
じゃないルンメニゲが気迫の2点目、フィッシャーのオーバーヘッドシュートが決まっ
て3-2に追いつきます。大会史上初のPK戦となりました。PK戦2-2から西ドイツ3人目
のシュティーリケが失敗し、顔を覆って泣き崩れる姿にこちらももらい泣き、が歓喜
に。フランスが二人失敗し西ドイツが奇跡的に勝利しました。以来ドイツのPK戦不敗神
話が生まれます。1976年の欧州選手権決勝のPK戦での敗戦が教訓となったのでしょ
う。
次の決勝はアルゼンチン、ブラジルを破って勢いに乗るイタリアです。西ドイツはイタ
リアが大の苦手。過去の対戦成績も大きき負け越していますし、1970年のワールド
カップの準決勝で死闘の末3-4で敗れています。1982年7月11日決勝の日を迎
えました。
私の音楽履歴書
還暦過ぎの趣味趣味おじさんです。
洋楽全盛期の1970年代、衝撃的だったのがレッド・ツェペリン「移民の歌」でし
た。ヘビーなリズムに甲高いボーカル。ハードロックとの出会いです。衝撃的ではあり
ましたが、好みとは違うな。やっぱりカーペンターズが好き。レコードはシングル中心
でしたがそんな買えるわけじゃないし。集めた中で良く聞いたのがニルソン「ウイズア
ウト・ユー」ジョージー・ハリスン「マイ・スイート・ロード」カーペンターズ「スー
パースター」スリー・ドッグ・ナイト「オールド・ファッションド・ラブ・ソング」な
どなど。
レコードのコレクションは増えないからもっぱらラジオのエアーチェックでした。
高校に入ってからラジカセを手に入れカセットテープに録音して楽しんでました。
文化祭ではバンドが定番のディープ・パープル「スモーク・オン・ザ・ウォーター」を
やってるそんな時代でした。
高校二年の春でした。NHKを見てたらクラシックのライブ映像でした。曲目は
ベートーベンのピアノ協奏曲第四番でした。ピアノはヴィルヘルム・バックハウス、
カール・ベーム指揮。オーケストラはベルリン・フィルかウイーン・フィルでした。
静かなピアノの独奏から始まり、地味だけどチャーミングでロマンティックな第二楽
章、日本人のわび・さびの精神に共鳴するようなメロディーです。連続して演奏される
ベートーベンらしい盛り上がりを見せる第三楽章。世紀の名演と言えます。この映像に
触れたことがクラシックに目覚めるきっかけとなりました。同級生にクラシック通がい
て、一度家に遊びに行ったことがありました。レコードをかけながらスコアを開きエ
アー指揮をするではないですか。すごいなあと感心したのですが、クラスが変わってか
ら疎遠になっちゃいました。洋楽とクラシック両方を追い求めるのはとても無理だし、
受験勉強もあるし、しばらく音楽はお預けとなりました。受験に失敗し浪人生活となり
受験生専門の下宿で生活することになりました。一緒だった下宿人の中にとんでもない
やつがいたのです。私の音楽のお師匠さんともいえる人です。彼は洋楽はもとより今で
いうJ-ポップスにも精通していました。洋楽とクラシック一辺倒だった私には彼が教え
てくれたJ-ポップスがとても新鮮でした。ユーミンの「ミスリム」山下達郎の「サー
カスタウン」彼には大滝詠一さんのコンサートに連れて行ってもらったし。センチ・
メンタル・シティー・ロマンスのコンサートにもいったなあ。今では貴重な体験でし
た。彼には今でも感謝しています。
再び西ドイツ代表チーム
学生時代の部活ついて書きました。やはり本格的にスポーツをやってこなかったので、
基本的な体力はないし、もちろん技術もありません。指導者もいません。部員でも経験
者とはいっても指導経験があるわけではないし、ましてや戦術などありません。個人の
力だのみの試合でした。したがって、県選抜などうまい選手が在籍すると強いチームが
出来上がるといった具合でした。部活としては春と秋に地区での他大学間のリーグ戦が
毎週末があり、夏に全国大会がありました。土のグラウンドですからスライディングす
ると太ももの横の皮膚に擦過傷ができ、治ったかな思ったら次の試合でまたズルムケ。
この繰り返し。当時はサッカーパンツも短いし、アンダーパンツもないし、雨の試合で
は泥んこになるので、海パンを下にはいて試合をしたもんでした。1978年当時はブ
ンデスリーガーではボルシアMGが3連覇した時代で、私の贔屓のライナー・ボンホフ
が中心選手として活躍していました。我が部のユニフォームもボルシアMGのレプリカ
で腕に緑と黒のラインの入ったものでした。懐かしい思い出です。
話を西ドイツチームに戻しましょう。1974年のワールドカップ優勝後、1976年
の欧州選手権では決勝でチェコと対戦しました。この試合2-2からPK戦となりました。
現バイエルン会長のウイリー・ヘーネスが失敗し、チェコの最後のキッカーがパネンカ
(有名な人を食ったようなチップキック)が決めてチェコが優勝しました。当時はTV放送
もなく雑誌で結果を知るだけでしたが、今ではユーチューブで見ることができます。
1978年のワールドカップで西ドイツは二次リーグで敗退しました。ボンホフは中選
手として活躍しましたが、G・ミューラー、ベッケンバウアーはすでに引退していまし
たし、タレント的にも見劣りするチームでした。この大会ではケンペスを中心としたア
ルゼンチンが地元の利もあって初優勝します。次の大会で活躍するロッシ、プラティ
ニ、がデビューしています。1980年の欧州選手権は西ドイツが決勝でベルギーを破
り2回目の優勝を遂げます。このチームで圧倒的な存在感を示したのがMFのベルン
ト・シュスターでした。代表に定着して間もない選手でしたが、長短のパスを屈指して
ゲームをコントロールし、往年の名MFギュンター・ネッツアーの再来と言われました。バルセロナに移籍し大活躍するのですが、サッカー協会との軋轢から代表に定着し
ませんでした。彼がいたら1982年のワールドカップは優勝できたでしょう。このこ
ろの映像はビデオに保存していたはずですが、VHS,βなのでそのうちDVDにダビング
しようと思っています。大量にあるのでいつになることやら。1982年のワールド
カップスペイン大会は決勝でイタリアが西ドイツを破り優勝します。名勝負の多い素晴
らしい大会になりました。
私の音楽履歴書
還暦過ぎの趣味趣味おじさんです。
今までたくさんの音楽を聴いて、レコード、CDを収集してきました。
最近、断捨離しようとそれらを処分しちゃったのですが、今は後悔しています。
処分したコレクションへの鎮魂のつもりで私の聴いてきた音楽の歴史を披露しようとブ
ログを始めました。
私は昭和33年に東北の片田舎で生まれました。小さいころから近所の親戚のお兄さん
の所に遊びに行ってはレコードを聴かせてもらいました。お兄さんは田舎にしてはハイ
カラな人でレコードをたくさん持ってたし、ソニーのオープンリールデッキも持ってい
たし、エレキギターも持ってたんじゃないかなあ。
聴かせてもらった曲で覚えているのはベンチャーズ「十番街の殺人」スプートニクス
「霧のカレリア」、そしてあのビートルズ「ロックンロール・ミュージック」でした。
ジョンのシャウトが子供心にもかっこいい・・・だいたいビートルズはオリジナルを凌
駕しちゃうからどっちがオリジナルかわからなくなっちゃいますが。ボーカリストとし
てのジョンの魅力が圧倒的で、以来なんといってもジョンのファンなのです。
それからビー・ジーズ「マサチューセッツ」のちにサタデイ・ナイト・フィーバーでブ
レイクする前のデビュー間もないころのヒット曲です。ギブ三兄弟のハーモニーのきれ
いな佳曲です。そんな影響もあって初めて買ったレコードはビー・ジーズの「ニュー
ヨーク炭鉱の悲劇」でした。随分とませた子供でした。次に買ったのはビートルズ「レ
ボリューション」それからクリーム「ホワイトルーム」ジミ・ヘンドリックス「パープ
ル・ヘイズ」の入ったコンピアルバムでした。当時はシングルレコードが中心でLPは高
くて子供には高嶺の花でした。また、家には父の買ったクラシックレコードもありまし
た。ベートーベンの第七番のだめカンタービレでおなじみですね。ドボルザークの新世
界などなど。以来、年齢とともにロック・洋楽時期、クラシック時期と行ったり来たり
を繰り返します。
1970年中学入学。典型的な深夜ラジオの長ら族です。洋楽のヒットパレードが楽しみで
した。キャロル・キング「イッツ・ツー・レイツ」カーペンターズ「遥かなる影」サイ
モン・ガーファンクル「明日に架ける橋」シカゴ「長い夜」ショキング・ブルー
「ヴィーナス」ステッペン・ウルフ「ワイルドにいこう」ビートルズ「レット・イッ
ト・ビー」B・J・トーマス「雨にぬれても」などなど、名曲ぞろいですね。私としては
70年代が洋楽の全盛期だと思います。そうゆう時代に青春期を迎えた私は幸運でし
た。
念願のサッカー部入部
1974年ワールドカップは応援していた西ドイツの優勝で終わりました。当時はビデオレコーダーもありません。記憶に残っているシーンはクライフの足元に吸い付くようなドリブル、ベッケンバウアーの守備での読みの良さ、オベラーツのたくさんボールに触ってショートパスからゲームを組み立てるうまさ、決勝点を決めたG・ミューラーのどんな体勢からもシュートができる異能さ、ボンホフの決勝点アシスト時の運動量とスピード、CKからの豪快なヘッディングシュートetc。今では映像を見ることができますので改めて見てみると現代のサッカーに比べてたらスピードが感じられないし、プレッシャーも弱い。個々の技術が発揮できるスペースと時間があるなあという印象です。ポジションの概念を取り払って全員守備、全員攻撃、オフサイドラインを高くして守備スペースをコンパクトにしオフサイドトラップを多用する。裏のスペースは足元の技術の優れたGKでカバーする。現在では当たり前のこの戦術はこの大会のオランダから始まるのでした。個人の技術に頼ったブラジルがオランダに0-2で完敗したのが象徴的でした。それから3位に入ったポーランドのスピード満点のカウンター攻撃も魅力的でした。得点王に輝いたポーランドのラトーは100メートル10秒台の俊足でした。
さて、ワールドカップは終わりましたが、サッカー雑誌は購読していて西ドイツの情報は仕入れていました。いわば追っかけですね。高校も三年になると受験モードになるししばらくサッカーはお預けとなります。受験に失敗し浪人生活、しかもご丁寧に二年も。めでたく大学に受かったのが1978年です。私の入った学部は医療系でしたので本学とは別に学部にサッカー部がありました。学部のサッカー部だから同好会に毛の生えたもんだろう、素人の集まりだろうから私でもなんとかなるだろう。部活ごとに新歓コンパがひらかれます。サッカー部のコンパに参加し、念願のサッカー部に五年越しの入部となりました。知識だけは自信があったけど、浪人でなまった体にはきつかった。1978年はワールドカップアルゼンチン大会があります。この大会からNHkで試合の放送が始まりました。サッカー部の顧問の先生のお宅に部員が集まって、ごちそうになりながら試合をTV観戦したのが良い思い出です。サッカー部は経験者が多かったのですが、意外とサッカーの知識がないのにびっくりしたものです。知識といっても私の知識は選手の名前だったり、試合の結果だったりですが。実践では役に立たない知識ですが。素人同然の私ですが、秋のリーグ戦で部員が足りないこともあり、試合デビューすることになりました。なんとその試合中にヘッディングの競り合いで相手の頭とバッティングして額を切ったしまったのです。額がパックリと割れて血が噴き出し、意識はありましたが救急車で運ばれる騒ぎに。傷は縫合してもらいましたが今でも跡が残っています。散々なデビュー戦となりました。部活自体は楽しかったし、試合の遠征で全国あちこちに行けたのは良い経験になりました。当時のサッカー部は全盛期でレギュラーは全員経験者で中には県選抜に選ばれた人もいました。素人で運動能力にも秀でていない私はレギュラーになれるわけもなく、6年間補欠で終わりました。
運命の1974年7月7日
さて、サッカー部入部にとん挫した私は「ダイヤモンドサッカー」の放送も中止となり熱も冷めつつありました。高校2年の春、テレビのスイッチをひねると海外サッカーの試合が入ってるではないですか。NHKでFAカップ決勝リバプールVSニュー・カッスルでした。リバプールは今年のチャンピオンズリーグで優勝しましたが当時も強かった。GKレイ・クレメンス、ケビン・キーガン、スティーブ・ハイウエイ、ジョン・トシャックなどそうそうたるメンバーでした。イングランド独特の声援、応援歌、素晴らしい雰囲気、眠っていたサッカー熱が再点火。
まもなくサッカー雑誌の特集号「1974ワールドカップ西ドイツ大会」を発見。そうだ今年は4年に一度のワールドカップの年だ。当時は16チームを4グループに分け1次リーグを行い、上位2チームずつ計8チームで2組に分かれて、二次リーグを行いトップチーム同士で決勝、二位同士で三位決定戦を行う方式でした。優勝候補は1972年の欧州選手権優勝の西ドイツ、前大会優勝国のブラジル、ダークホースはオランダということでした。サッカーの神様ペレが引退し次のスーパースターが現れるかが話題となる大会でした。また一次リーグで西ドイツと東ドイツが同じグループに入ったことも話題となりました。情報はサッカー雑誌しかない時代でしたので決勝が初めて生中継される大会と知り、しかも新聞で決勝のカードは贔屓の西ドイツとダークホースのオレンジ旋風を巻き起こしトータルサッカーでブラジルを撃破したオランダです。決勝1974年7月7日は一学期の期末試験の真っ最中です。試験勉強にかこつけて徹夜をしてTVのスイッチをオン。胸は高鳴り、正座をしたまま観戦しました。さんまさんが話してましたが同じように当日正座して西ドイツを応援してたようです。初めて見るワールドカップ決勝、贔屓の西ドイツが出ていることで緊張マックス。試合の顛末は開始1分でのPKと衝撃的なスタートとなりましたが西ドイツが2-1と逆転し優勝しました。本当にくたくたに疲れた90分でした。この試合で印象に残っている選手がミッドフィールダーのライナー・ボンホフでした。チーム最年少の22歳。抜群の運動量で守備に貢献し決勝点をアシストしました。以来彼の大ファンになりました。現在彼はブンデスリーガーボルシアMGの副会長として活躍しています。オランダは敗れたとはいえヨハン・クライフを中心としたトータルフットボールは夢のサッカーといわれサッカーの戦術に革命をもたらしました。